最近、トイレの夢をしばしば見るようになった。あえて夢分析をしようとも思っていない。ただ今は、夢日記を付けることにする。
▼ユメの成長過程
幼い頃(小学校)はとにかく飛行する夢が多かった。そして恐い夢が多かった。
ハンググライダーで空を飛ぼうとする。しかし助走が足らずなかなか飛べない。汗したたるほどがんばった後、やっと飛べた。自宅の近くの空を飛ぶ。小学校の脇にある田んぼの中にぽつんとビニールハウスがあるのを発見。中に入ってみると、首吊りの人間の屍体が幾つも鮨詰めになってある。急に恐くなってその場から離れようと、再びハンググライダーで飛ぼうとする。しかし、初夏の田んぼには膝まである稲や泥が足を邪魔して助走がとれない。それでも全力でハンググライダーで飛ぼうとする。早く家に帰えりたい。早くおばあちゃんのところへ行かなくては!と必死である。
空を飛ぶ夢はよく現実逃避といわれるけれど、いま思うとその通りだったのかもしれない。わたしは田舎生まれの田舎育ち、小さい頃からここから抜け出したいという思いが強かった。早朝にテレビのニュース番組で放送される「世界の天気予報」を見ていると身震いがするほどその魅力に囚われるおもいをいまも憶えている。
中学・高校の頃になってくると建物の内部での夢を頻繁に見るようになった。その頃あたりから、なぜか現在にいたっても頻繁に見るのがトイレの夢である。昔からゾンビとか恐いモノの”追い掛けられ役”に徹していたわたしだったが、いつしか夜毎トイレでのカタルシスを味わうようにまでに成長した。
▼なぜトイレか
なぜわたしの夢にしばしばトイレが現れるのか。
トイレの夢を見させる誘因とは何か。
トイレ→ 放尿→ カタルシス? 性器?
偏見に満ちた連想が浮ぶ。
考えられる原因はなかなか見つからない。わたしにはオイディプスコンプレックスの気はない(とは断言できない)が、高校の頃までは異性(男)が嫌いだった。いや、人間以下だとおもっていた。唯一信頼のおける男性は父親のみだった。そんな話しはよくあることだとおもうが、しかし、そんなことがトイレの夢と関係があるのか。
これはわたしの勝手な推測。快楽の性感帯への開拓時期にわたしはいるのだろう。澁澤龍彦が「快楽主義の哲学」のなかでこう述べている。
”子どもが手足を動かしたり、裸になってそこらをかけまわったり、キャーキャー叫んだり、指をしゃぶったり、うんこをしたり、おしっこをしたり、ときによっては泣きわめいたりするのも、すべておとなのエロティックな快楽に匹敵する快楽なのです。とくに口や肛門は、フロイトも確言しているように子どものもっとも重要な性感帯ですが、----”
放尿という快楽。そしてあらゆるトイレ様式の出現。それはきっとはじめての海外旅行先で食べる食事のようなものだろう。 そう、純粋で初心(うぶ)な快楽! わたしたちは幼いころから知っていた。そして忘れてはいないのだ。生後間もないわたしは、お湯に入れてもらい気持ちがよくなると天使の噴水が放物線を描いた。幼稚園の頃に出かけた海水浴、我慢ができなくて海の中でオシッコをした。わたしたちは知っていた、小さい身体でも大きな快楽を。
わたしの夢に登場するトイレたちは感心するくらい様々な様式があり、こう長い間トイレの夢を見ているとトイレコレクション本が書けるのではとおもえてくる。その中でも一番のお気に入りは【シャワー式トイレ】だ。ウォシュレットのことではない。全身裸になり、腰から下部へシャワーが放出され、立ったまま放尿。清潔を保ちながらも垂れ流しできるという、女性の立ちションを叶えてくれる逸品。
シャワー式トイレ↑
浴槽式トイレ→
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麗江せせらぎ型
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▼セノイ族
トイレの夢をしばしば見る人は、なにもわたしだけではないだろう。そう思い比較的信用のおける知人に話したことがある。その人は「ただ単に寝る前にトイレに行っていないだけじゃないのぉ」とか、「お漏らししてたりしてぇ〜きゃはは」とか心配してくれた。 同調してくれる人は、きっとこの世界の何処かにいるはずだ。 そして探した。この人たちなら、きっとわたしの夢中放尿を理解してくれるにちがいない。
その人たちは、西マレーシアのジャングル高地にいた。人口2〜3万人の農耕民族で、焼畑農業を営み、二三年ごとに移動する。その人たちはセノイ族という。 彼等はのんきで暴力をふるわず、心の病や暴力が存在しない。その要因として挙げられるのがセノイ族の夢の制御と夢利用の理論という説がある。
セノイ族の父親は朝食のときに子どもに夢を見たかどうかを尋ねる。そして夢を見たことを褒め、その夢の意義について議論をし、次ぎの夢の中でどのように行動と態度を変えれば良いかを子どもに説明する。
この夢見討論は村全体でも話し合われる。朝食のあと、村の男たちや思春期の少年たち、何人かの女性たちが集まり、自分の夢を他の村人に話す。そして、もし友人が夢の中で自分を傷つけたなら、友人にその事を言い、その友人は夢を見た人が受けた損傷のつぐないをしたり、夢の中での好ましくないイメージを修正するという。
▼夢見の三原則
わたしが面白いとおもったのはセノイ族の父親が子ども達に教える「夢見の三原則」である。以下は「夢の秘法 The
Mystique of Dreams」ウィリアム・ドムホフ William Domhoff 1991岩波書店より抜粋したもの。
- 夢の中では、常に危険に立ち向かい、征服せよ。
もし動物がジャングルからぬっと出てきたら、向かっていけ。
もし誰かが攻撃をしかけてきたら、戦え。
- 夢の中では、常に快楽的な経験を得る方向に向かえ。
もし夢の中で誰かに魅惑されたら、それに身をまかせて自由に性的な交渉をもつがよい。
もし空を飛んだり水泳をしたりして快楽を感ずるなら、リラックスしてその気分を堪能せよ。
- 夢を好ましい結論へ導き、そこから創造的な産物を引き出せ。この点でもっとも好ましいのは夢に登場した者から、詩、歌、踊り、装飾品、絵のような贈り物をもらうことである。
なんたるユートピア!
わたしもセノイ族の「夢見の三原則」に従って、自己の夢見を分析してみる。
- わたしはよく白人の老人を殺害する夢を見る。そして怯むことなくマシンガンで連射する点においては、セノイ族的に合格といえる。
- わたしは先に述べたように、トイレで放尿する夢をしばしば見る。放尿によるカタルシスを得ることに徹底的に堪能しているという点において、セノイ族的に合格といえる。
- ”夢を好ましい結論へ導き、そこから創造的な産物を引き出せ”という言葉は、わたしにとって意味深いものに感じる。 それがセノイ族からわたしへのメッセージであるとするならば、わたしはこの先も様々なトイレ様式で放尿する夢を見、「トイレ放尿記」を何らかの手段で世に公表させることであろう。
わたしはセノイ族の「夢見の三原則」に従い、これからもいろいろなトイレとの出会いを大切にしたいく。そして更なる快楽への開拓者として、わたしは努力することを怠らない!
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